サッカー日本代表 監督 歴代

さて今回の注目記事は・・・

森保一 もりやすはじめ(2018~)

森保一日本の元サッカー選手(MF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。長崎県長崎市出身。

元サッカー日本代表。日本A代表兼日本オリンピック代表監督(現サッカー日本代表監督)はフィリップ・トルシエに次ぐ史上2人目(日本人監督としては初)。

得意なフォーメーションは3-4-2-1。相手ボール時には最終ラインが5人になりやすい守備的3バック。

 

西野朗 にしのあきら(2018)/2勝4敗1分け

西野朗埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

現役時代の主なポジションはミッドフィールダー(MF)。

2018 FIFAワールドカップでは日本代表を率いた。

J1リーグの監督として通算勝利数270は歴代1位。

 

ヴァイド・ハリルホジッチ(2016~2018)/21勝8敗9分け

ユーゴスラビア、現ボスニア・ヘルツェゴビナ出身。

2011年からアルジェリア代表監督を務め、2014年W杯ではベスト16。

敗れたものの、優勝したドイツを最も苦しめたチームと世界中から賞賛された。

スピードと球際の強さ(インテンシティ)を重視したサッカー。

本田圭佑や原口元気、大迫勇也など当たりに強い選手を重用する傾向がある。

 

 

 

 

 

ハビエル・アギーレ(2015年)/6勝3敗1分け

メキシコ出身。

メキシコ代表監督として2002年W杯ベスト16・2010年W杯ベスト16ということで、かなり期待値が高かった監督。

激戦の南米サッカーに習い、堅い守備からのすばやいカウンターサッカーは面白かった。

残念ながらスペイン1部リーグ、レアル・サラゴサの監督をしていた時代の八百長疑惑で告発され、日本代表監督を契約解除。

アジアカップ2015にてベスト8。

 

アルベルト・ザッケローニ(2010~2014年)/30勝12敗13分け

イタリア出身。

ACミラン、インテル、ユヴェントスなど世界的名門クラブでの監督経験を買われての就任だったが、この人もジーコと同じく代表監督は未経験。

日本代表監督として初めての指揮で、南米の強豪アルゼンチンを1-0で下した。

2014FIFAワールドカップ・ブラジル大会アジア予選をグループ1位で本大会出場を決めたが、ワールドカップ本大会では1分け2敗でグループリーグ敗退となった。

最後の最後に代表監督の経験のなさが采配に表れてしまったのが残念。

 

岡田武史(2007~2010年)/26勝11敗13分け

岡田武史岡田武史病気のイビチャ・オシムに代わり2度目の火中の栗を拾うように急きょ代表監督に就任。

4大会連続4回目となる2010FIFAワールドカップ・南アフリカ出場を決めるも、その後の強化試合で数々の敗戦によりワールドカップ開幕直前にはマスコミからも散々叩かれっぱなしで、世間の期待度は低かった。

しかし、直前で中盤の底にワンボランチを入れる超守備的布陣に方針転換したことが幸いし、グループリーグを2勝1敗で通過し、決勝トーナメントに進出。

決勝トーナメント1回戦のパラグアイにPK戦で敗れたものの、日本中が岡田ジャパンに沸いた。

本田圭佑が大活躍し、ヨーロッパへ活躍の場を広げたのはこの大会だった。

 

 

イビチャ・オシム(2006~2007年)/13勝5敗2分け

ユーゴスラビア出身。

当時ジェフ千葉の現役監督で会ったのを半ば強引に代表監督に引き抜かれた。

「考えて走るサッカー」を標榜し、巻誠一郎などこれまで代表経験のない選手が多く起用された。

主な成績は2007年のアジアカップで4位。

2007年に脳梗塞で倒れ、監督退任。

ワールドカップの舞台での采配を見て観たかったが実現しなかったことで一番残念な監督。

 

ジーコ(2002~2006年)/39勝18敗15分け

ブラジル出身。

厳格でルールを重んじたトルシエとは全く逆で、選手が自分たちで考え自由にプレーする事を好んだ。

ブラジルでは神と崇められるほどの名プレーヤーだったが、監督経験はこの日本代表が初めてということで国際舞台での采配には何度も疑問が投げかけられた。

2004年アジアカップ優勝。

中村俊輔・中田英寿・小野伸二・高原たち「黄金世代」といわれた才能のある選手が多かったが、

2010FIFAワールドカップ・ドイツに3大会連続3回目の出場を果たしたものの2敗1分けでグループリーグ敗退。

 

 

フィリップ・トルシエ(1998~2002年)/24勝11敗17分け

フランス出身。

「フラットスリー」という、守備の最終ラインを揃えてオフサイドラインを保つ戦術が彼の代名詞。

A代表とオリンピック代表を兼務し、2000年シドニーオリンピックでは釜本邦茂を擁したメキシコオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たす。

2002年、初の共同開催となった日韓ワールドカップで当時、注目選手だった中村俊輔を代表メンバーから外して話題となった。

ワールドカップ初戦のベルギー戦を2-2で引き分けワールドカップ初の勝ち点1を獲得。

続くロシア戦ではワールドカップ初勝利を収める。

次のチュニジア戦にも勝利し、グループリーグ1位で初の決勝トーナメント進出を決めた。

中田英寿、稲本潤一など才能豊かな選手に恵まれていた。

 

岡田武史(1997~1998年)/9勝6敗4分け

加茂監督の更迭を受けて、急きょ就任した。

1998FIFAワールドカップ・フランス アジア最終予選途中に代表コーチから代表監督に就任。

予選突破が危ぶまれる中、土壇場で巻き返し、ワールドカップ初出場を果たす。

歴史的な快挙に「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれた。

最後の最後で、当時絶対的エースの三浦和良、北沢豪をメンバーから外して話題に。

中山雅史のワールドカップ日本人初ゴールが生まれたものの、初のワールドカップの結果は3戦全敗でグループリーグ敗退。

 

加茂 周(1995~1997年)/27勝14敗10分け

ファルカンが不評だったため、やっぱり日本人監督だということで就任。

当時最先端戦術のゾーンプレスを採用した監督。

1998FIFAワールドカップ・フランス アジア地区最終予選のカザフスタン戦直後、成績不振によりカザフスタン現地で更迭。

 

ロベルト・ファルカン(1994年)/3勝2敗4分け

ブラジル出身。

現役時代はブラジル代表”黄金のカルテット”の1人として活躍したボランチで、期待が大きかった。

前任オフトの細かい戦術とは違い、自主性に任せた指導法に選手が戸惑い、アジア大会でのノルマ(ベスト4以上もしくは韓国より上の成績)をクリアできないなど、これといった結果を出せないまま解任。

 

ハンス・オフト(1992~1993年)/16勝9敗8分け

オランダ出身。

初の外国人監督。

いわゆる「ドーハの悲劇」、つまり1994FIFAワールドカップ・アメリカ アジア最終予選、勝てばワールドカップ初出場が決まるイラク戦でロスタイムに同点ゴールを許し、出場を逃した。

「ゾーンプレス」「アイコンタクト」という概念を日本に定着させたのはこの人。

就任した1992年にダイナスティカップ優勝。

同年、広島で行われたアジアカップでも優勝。

この時のメンバーにはラモス瑠偉、中山雅史、三浦知良

 

横山謙三(1988~1991年)/5勝12敗7分け

1991年6月キリンカップ初優勝。

今まで白地に日の丸のエンブレムだった日本代表ユニフォームが、この大会では赤に八咫烏(やたがらす)をエンブレムとしたユニフォームを着用。

八咫烏のエンブレムは今でも日本代表のシンボルとなっている。

石井義信(1986~1987年)/11勝4敗2分け

当時、日本最高のプレイヤーと言われた木村和司を外して話題に。

 

森孝慈(1981~1985年)/22勝16敗5分け

1986FIFAワールドカップ・メキシコ アジア最終予選、超満員の東京国立競技場に韓国を迎え、勝てばワールドカップ初出場が決まる一戦だったが惜しくも1-2で負け、出場を逃す。

この時の日本の1点が木村和司の伝説のフリーキック。

1985年10月26日、日本が最もワールドカップに近づいた日として語り継がれている。

 

川淵三郎(1980~1981年)

渡辺正(1980年)

下村幸男(1979~1980年)

二宮寛(1976~1978年)

長沼健(1972~1976年)

岡野俊一郎(1970~1971年)

長沼健(1962~1969年)

現役選手でありながら33歳で日本代表監督就任。

1968年メキシコオリンピック銅メダル。

 

高橋英辰(1960~1962年)

竹腰重丸(1958~1959年)

川本泰三(1958年)

高橋英辰(1957年)

竹腰重丸(1951~1956年)

二宮洋一(1951年)

工藤孝一(1942年)

竹腰重丸(1938~1940年)

鈴木重義(1936年)

竹腰重丸(1934年)

鈴木重義(1930年)

山田午郎(1925年)

西田満寿次郎(1923年)

佐々木等(1921年)




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